ここではペットの犬を溺愛する人間を愛犬家と指し、否定する。
南町田のグランベリーモールへ行ってみた。
しばらくぶりに訪れるとそこは、愛犬家達の楽園になっていた。
いたるところに、犬、犬、犬。
犬、犬、犬。
犬、犬、犬。
愛犬連れの人がなんとまぁ多いこと、多いこと。
普通に買い物に来た、犬が苦手な人は大丈夫なのだろうかと余計な心配をしてしまうほどであった。
さすがに今日出あった人達にはいなかったけれども…私は犬は好き(我が家にもブサイクな犬がいる)だが、愛犬家はキライだ。
例えば、公園で犬談義に花を咲かせている愛犬家集団。
「お宅のワンちゃんは〜」
「ウチのワンちゃんは〜」
と話をしている間も、「かわいい我が子(犬)をのびのび運動させたい。」という理由からかリードを離して、そのまま。
例えばその時、そのかわいいい我が子が、近くの砂場で遊んでいた人間の赤ちゃんを追いかけ廻し、その際逃げようとした赤ちゃんが転んで擦りむいてしまったとしよう。
するとその飼い主は、恐怖で泣き叫ぶ赤ちゃんにきっとこう言うはずだ。
「(満面の笑みでタラタラ走って来て)あらあら〜。ごめんなさいねぇ。怖かった?でもね、ウチのジョンちゃん(犬)は噛まないから、そんなに恐がらなくてもいいのよ〜。」
「…ジョンちゃん噛み殺しちまおうかぁ!」
とにかく愛犬家は、世界中の全ての人がそのジョンちゃんを愛していると盲目的に思い込む節がある。
ジョンちゃんを中心に廻っている世の中には、犬が苦手な人がいるという理解など存在しないのである。
以前早朝に、我が家の庭にとても大きな猟犬が1匹で迷い込んで来たことがあった。
突然乱入した大きな大きな招かざる客に、我が家にいる猫3匹・犬・そしてモルモットまでそれはそれは恐怖で大騒ぎ。
庭で洗濯物を干していた祖母も、腰を抜かしそうな勢いで恐怖におののいていた。
原因はもちろんリードを離して散歩をしていた愛犬家なのだけれど…その人はどこかでずっと愛犬の名前を呼び続けるだけ。
飼い主の手から離れていたのでは全く“犬の散歩”になっていないのである。
ここはモンゴルでは無い。
その人も結局、他人に迷惑をかけないようにするという人間としての最低限の意識が、愛犬を愛し過ぎるが故に欠如してしまっているのだ。
その上、自分が起こしている、他人が迷惑と考える行為さえも黙殺するどころか、
「喜んでくれている」
と勘違いする人間までいるようで…何かを愛し過ぎるが故の無知はやはり恐ろしいなと思うのである。
人間と犬は、歴史の中で、主従関係というカタチの信頼を深めてきたのだと思う。
もちろん飼い犬を家族として扱うことに今更文句も言えまい。
ただ、家族の間にも“教育”や“きまりごと”という名のしつけがある。
家族だからこそ、やるべきことがあるんじゃないかぁ、愛犬家よ。
(〈トラックバック〉●「犬の散歩のマナーについて思う・・・ 」→05・11・23『非・実・力・派・宣・言』)
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コメント
コメントありがとうございました。
私も多分「愛犬家」と呼ばれる部類なのでしょうが、犬のしつけと社会のマナーを遵守する「愛犬家」でありたいと思っています。
犬のしつけは必要なことなのですが、それが今の日本に浸透していない現状が歯がゆいですね。
投稿: Miya | 2005/11/28 11:36
Miyaさま、こんにちは。
こちらこそ、トラックバックはらせていただきましてありがとうございます。
我が家にもワンコがいるので、犬を愛する気持ちは十分にわかるんです。
「愛犬家」の定義も幅広くて、どうがどうなのかはわかりませんが…少なくとも「人に不快に思われないこと」…ホントにごく当たり前のことを、可愛さ余って見失うことだけは、他の飼い主を客観的に見ていてイカンなぁ!したくないなぁ!と、思いますね〜。
投稿: かんげ | 2005/11/28 15:48